1 | 1961年 |
2度目のハンブルグ巡業に出かける(7月1日まで) この期間にスチュワート・サトクリフ グループから抜ける
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1976年 |
ジョンの父 死去
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2 | 1971年 |
リンゴ初のシングル・レコード It Don't Come Easyを発表する プロデュースはジョージ・ハリソン
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1973年 |
ジョンとヨーコ ニューヨークで記者会見を行い領土、国土、法律、官僚制、パスポート等がない新国家「ニュートピア」を提唱する
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1974年 |
ポール ロスのダウン・タウンにあるミュージック・センターのドロシー・チャンドラー・パビリオンで行われたアカデミー賞授与式に出席 「007 死ぬのは奴らだ」で最優秀編曲賞を受賞
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3 | 1967年 |
ポール 恋人ジェーンの誕生日を祝うためハリウッドへ出発
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1970年 |
リンゴ 初のソロアルバム SENTIMENTAL JOURNEYをリリース プロデューサーはジョージ・マーチン
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7 | 1969年 |
アラン・クレイン 正式にビートルズのマネージャーになる
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8 | 1963年 |
ジョンとシンシアの間にジュリアン誕生
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9 | 1965年 |
シングル TICKET TO RIDE 発売
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10 | 1962年 |
スチュアート・サトクリフ死亡(21歳) 4月14日とする本もある
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1966年 |
ジョン 元イブニング・ニュース・スタンダード誌の記者であるモーリン・グリーブスとのインタビューの中で「ビートルズは今やキリストよりも有名である」と発言 イギリスでは大した騒ぎにはならなかったが後にアメリカではビートルズ排せつ運動にまで発展した
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1970年 |
デイリー・ミラー紙にポールが脱退を公式発表したという記事が掲載される アップルは正式に否定する
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11 | 1969年 |
シングル GET BACK 発売
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12 | 1963年 |
シングル FROM ME TO YOU 発売
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1970年 |
「SUNDAY TIMES」に「ポールの脱退はジョンとヨーコの結婚にある」という旨の手記をハンター・デイビスが発表する
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13 |
3度目のハンブルグ巡業(5月31日まで)
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15 | 1964年 |
A HARD DAYS NIGHT クランク・アップ
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1971年 |
アルバム LET IT BE 第43回アカデミー賞で最優秀賞に輝く
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16 | 1973年 |
ポールのテレビ・スペシャル「ジェームズ・ポール・マッカートニー」アメリカのABCテレビから放送される
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17 | 1970年 |
LET IT BEと発表時期が重なるともめにもめた末 ポールの初のソロ・アルバム McCARTNEYが発表される
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18 | ||
19 | 1967年 |
合資会社「ビートルズ&カンパニー」のパートナー・シップが締結される
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1973年 |
2枚組ベスト・アルバム THE BEATLES 1962-1966 (赤盤)THE BEATLES 1967-1970
(青盤)発売
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20 | 1972年 |
ジョンとヨーコ シングル・レコード WOMAN IS THE NIGGER OF THE WORLDを発表 「NIGGER」と言う言葉が問題であるとされいくつかの曲で放送禁止の指定を受けた
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22 | 1969年 |
ジョン ジョン・ウィンストン・レノンからジョン・オノ・レノンに改名する
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26 | 1971年 |
ジョン ジョージリンゴの3人はポールから出されていたビートルズの正式解散要求に対する「これを認める」という判決にたいして上告しないことを決定。ビートルズ裁判は終わりを告げる
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1978年 |
ジョージの父 死去
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27 | 1975年 |
LP VENUS AND MARS発売
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1981年 |
デニー・レイン ウィングスを脱退しウィングス終わりを告げる
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リンゴ バーバラ・バックと再婚 ジョージ夫妻ポール夫妻がお祝いに駆けつける
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30 | 1964年 |
ジョンとリンゴ ロイ・オービソンの誕生パーティーに出席する
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