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ビートルズが私にとって特別なものになったのは、1971年のことだった。

その時、彼らはすでに解散して、でも彼らの存在感だけは嫌になるくらいにそこここに残っている、そんな時代だった。


THE BEATLES

語ろうとするとうまく語れない。

1970年 小学校の社会科見学でどこかに行った時、Let It Beが公開されていた。
あの時のことを、なぜ今になってもこんなに鮮明に覚えているのだろうか?
衝撃的な出会いでも何でもなかった。日常のほんのひとこまの中に、上空から私を見下ろす4人の顔がある。

初めて買ったのはLet It Beのシングル。
Let It Beはすごい曲だと思った。でもそれ以上の衝撃はB面
のYou Know My Nameだったんだ。
なんでこれがシングルカットのB面なんだ?って。
私の中の常識としてシングルのB面はある程度A面につぐものって固定観念があった。それなのに何?これ?
衝撃より疑問。A面とB面の格差。
あれは1971年、万博の次の年。その時すでに彼らは伝説だった。

出遭った時の衝撃って、ない。日常生活の中に気がついたら入り込んでた。
いつのまにか私は彼らのとりこになっていた。

本当ならば、ここでどれだけ自分は彼らを好きだったかなんて語んなきゃいけないのかも知れない。
好きだったよ。本当に。

でも何だかもう語れない。気持ちは溢れても、それは激流ではなく源泉だから。

たった一つ、今言えるのは
自分の人生を振り返る時、その時も彼らはここ、私の中にいる。

語ろうとすると、胸がつまってもう語れない。

 


 


John Lennon

1980年12月 8日 Johnが、死んだ。
その頃、私は会社勤めをしていた。周りにビートルズを聴く人もなく、従って話す人もなく、初めのうちあった、取り残されていくような焦燥感でさえも、そのころは薄れつつあった。
どのようにしてそのニュースを知ったのか、まるで覚えていない。
覚えているのは、夕刊紙に踊る「ジョン・レノン 射殺」の真っ赤な文字とダブル・ファンタジーのジャケット写真。
何かの間違いであってほしい。
誰が?どうして?どうして?どうして?
私の耳は何も聞こえなくなり、私の目は何も聞こえなくなってしまった。
テレビではそのニュースが繰り返し流されていたが。
Johnは、数年間の沈黙を破って、ダブルファンタジーを発表した直後だった。
彼は音楽活動を休止し、家庭での時間を過ごしていた。
そんな時、ショーンの
「パパはビートルズだったの?」
という質問をきっかけに、活動を再開したばかりだった。
ビートルズからも、そして当時の音楽シーンからも遠ざかりつつあった私は、
ダブルファンタジー発売は知っていたものの、なんとなく購入はためらっていた。
なんとなく、なんとなく、買わずにいたのだ。
その日の夜、小さなレコード店で私はダブルファンタジーを買った。
大きな店では、買う気が起こらなかった。
ジョンが死んだことを再認識させられそうだったから。
街はずれにあった小さなレコード店では、その日にジョンが死んだことなど関係ないといった感じで、ダブルファンタジーは、ビートルズのスペースに無造作に並べ入れられていた。
NOW PLAYING、 スピーカーの上にジャケットを飾ってそのLPを聴くのが習慣だった。
ダブルファンタジーをそこに置き、ジャケットのジョンとヨーコを一晩中眺めていた。
とうとうダブルファンタジーは針を落とすことができなかった。
そして私は、未だにダブルファンタジーを聴けずにいる。

ジョンが死んで1ヶ月後、私は結婚した。
配偶者は特にビートルズが好きというわけではなかった。

それは小さな偶然であるとしても、ジョンの死とともに私の青春は終わったのだと考えている。





ビートルズ世代

私の周りにはビートルズファンの大人が多かった。
曰く、日本公演を見に行った。
曰く、ヘルプの初公開は徹夜で並んだ。

私は解散直後にファンになった。
彼らにのめり込んだ時、彼らはビートルズであったことさえ否定しているようだった。
現実の彼らに背を向けて、私は過ぎ去った彼らの時代を追い求めていった。

リアルタイムで彼らを感じた人の話など聞きたくはなかった。
後もう少し早く生まれていれば、と悲しくて悔しくて、
その気持ちをリアルタイムの人に知られたくなくて、そんな話、聞かずに過ごそうと努めていた。

1974年〜1976年
その頃、私は、ビートルズ・シネ・クラブの映画会、未発表フィルム上映会と頻繁に足を運んでいた。
会場に集まっているのはほぼ私と同年代かその下の世代だっただろう。
つまり、誰もがリアルタイムに乗り遅れた世代と言っていい。

もちろん各家庭にビデオなんてない時代だったから、動いている彼らに会えるのは
そんな上映会でしかありえなかったのだ。

上映会はいつもたいへんな熱気で、むんむんしていた。
スクリーンに向かって誰もが嬌声をあげる。
まるで彼ら4人が目の前にいるかのように…
初めて行った時は、ただただ圧倒されて声も出ず、またその反面、スクリーンの彼らが答えてくれるはずもないのに叫び続ける周囲を、さめた気持ちで見ていた。
だが、一緒に行った友達が、隣で泣きながら叫んでいるのに、自分が白けていては申し訳ないような気持ちになって、控えめに叫んでみた。
ジョン!!
スクリーンのジョンははにかんだような笑顔で私に笑いかけていた。

気がつくと、私も周囲と一緒に叫んでいた。
彼らはもういないのに。

考えてみれば、その頃は、それぞれにソロで精力的に活動している時期である。
しかし、映画会や上映会ではそのソロ活動にはいっさい触れられなかったように思う。
きっと、誰もが過ぎ去った幻影を追い求め、ソロとしての一人一人をどこかで否定していたのではないだろうか。


 ビートルズ世代 その2


1998年12月、PCを購入。
数々のビートルズ・サイトを知った。
年若いビートルズファンがたくさんいることに、衝撃を受けた。
それまで私は 乗り遅れた世代としてのコンプレックスを ずっと持っていた。
私たちは、当時では 若い世代のファンだったのだ。
私たちのすぐ下の世代になると、キッス クイーン ベイ・シティ・ローラーズ。
次第に ビートルズが忘れられていくような、そんな感じがしたものだ。
実際に、ラジオ番組の人気投票では、どんどん順位が下がっていっていた。
不動の1位だったのが、カーペンターズに抜かれ、クイーンに抜かれ…
次第にベスト・テンに入るか、入らないかまで下がってしまった。
今にして思えば、偉大だったビートルズから 音楽シーンは 卒業しようとしていたのかもしれない。

私たちの年代のちょっと下くらいは一番ファンになりにくい世代だったのではないだろうか。
それから20年近くがたった。
新しいビートルズ・ファンが育っているなんて考えたこともなかった。

あるHPで同年代の人のエッセイを読んで涙が止まらなかった。
ここにも私と同じ思いをした人がいた…
そして、ずっと抱いていた リアルタイムに間に合わなかったコンプレックスは、私の中から いつの間にか消えていた。
それぞれが それぞれの世代で ファンでいればいいんだと思えるようになったのだ。
肩の力が抜けて、私はとても楽になった。



ポールの日本公演

1990年東京ドーム、ポールがやっと日本にやってきた。
ステージの横のスクリーンにはたくさんの顔が映し出されては消えていった。その中には リンゴとジョージとそして、ジョンがいた。
これでもか、これでもかというくらいのビートル・ズナンバーの嵐。
客席は総立ちだった。
私はアリーナのど真ん中にいた。
ちょうど2塁ベースのあたりになると思う。
ポールの しわをきざんだ顔が よく見えた。
リンダが、普通のおばさんが持つような、布の袋を持ってきて、キーボードの端に引っかけていたのが印象的だった。
ポールが 動いて歌っている。しかも 殆どがあの 大好きだったビートルズだ。
隣で 一緒に行った友人が、涙を流していた。
私も 涙が出て止まらなかった。
ポールは生きてるのに、どうしてジョンはいないんだろう。

スクリーンに ジョンの顔が映し出された時のショックを、どう例えれば いいのだろうか?
ポールにとって もうジョンは過去になったのだと 思い知らされたのだ。
私には、そうとしか思えなかった。
ポールにとって、ビートルズも ジョンも 自分の中で整理がついた過去になったから
そして、ジョンはもういないから、何のわだかまりもなくなった。
だからジョンの肖像をあんな風に使えた。私には、そう思えた。
ポールの歌は素晴らしかったし、ライブは感動的なものだった。
でも、ジョンは もういない。 

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