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1957 ・ジョン、クオリー・メン結成
・ポール、友人の紹介でジョンと会う。後日、クオリー・メン加入。

1958 東京に生まれる。
1958 ・ジョージがクオリー・メンに加入。
1959 スチュアート・サトクリフ加入。シルヴァー・ビートルズへ
・ピート・ベスト、オーディションで加入。ビートルズへ。
・初のハンブルグ巡業。
・リチャード・スターキーとセッションで演奏。   

1960

・キャバーン初出演
・スチュ脱退
マイ・ボニー発売。
・ブライアン・エプスタイン、マネージャーになる。
1960 ・スチュ死亡。
・ピート・ベストが首になり、リンゴが加入。
・「ラブ・ミー・ドゥ」発売。

1963 幼稚園入園 幼稚園児にして、飯田久彦にはまる。

ライブ:日劇ウエスタン・カーニバル(ロカビリー)舟木一夫 橋幸夫
(以上親同伴。あたりまえだって。)
1963 ・「プリーズ・プリーズ・ミー」初の1位に。
・女王陛下の前で演奏。  
1964 ・エド・サリバン・ショー出演
・「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」公開

1965 小学校入学 引き続き、飯田久彦、舟木一夫。
1965 ・「ヘルプ!4人はアイドル」公開
・MBE勲章授与。   
1966 ・ジョン、キリスト発言
・西ドイツ、日本、フィリピンを回る極東ツァー。
1967 ・ダブルA面「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー/ペニー・レイン」が1962年以来チャート1位に なれなかった初のビートルズ・シングル
・初の全世界生中継番組「アワ・ワールド」で「愛こそはすべて」発表。全世界で2億人が見たと言われている。
・ブライアン・エプスタイン死去
・「マジカル・ミステリー・ツァー」放映。
彼らのプロジェクトとして、初めての不評をかう。

1968
LP 初めて自分のお小遣いで買ったシングル、
フォーククルセイダース・帰ってきたヨッパライ
1968 ・アップル・コープス・リミテッド設立
・「ヘイ・ジュード」発売。ビートルズとして最も売れたシングルとなる。

1969 小5
フォーリーブスにはまる。初めて買ったアルバム、「少年達」。
フォーリーブスのシングル・アルバムは完全コレクションとなる。
ドリトル先生シリーズ愛読
1969 ・アラン・クライン、後任マネージャーとなる。
・ポールがリンダと、ジョンがヨーコとそれぞれ結婚。 ジョン、ヨーコとベッドイン
・4人が最後に録音したアルバム「アビーロード」発売。
ビートルズのアルバムの中で 最高の売り上げとなる。

1970 小6 初めてビートルズを意識する。きっかけは 公開されていたLet It Be。
でもやっぱり好きなのはフォーリーブス。
高学年で宮沢賢治にはまる。豊臣秀吉が好きで各種「太閤記」を読みあさる。
ボードレールも好きだった。生意気な小学生だ。
1970 ・ポール脱退を表明
・「レット・イット・ビー」発売
・ポール、ビートルズの正式解散要求を 
ロンドンの高等裁判所に提出し、ジョン・ジョージ・リンゴを告訴。


・ジョージ「オール・シングス・マスト・パス」発表。
・ジョン「ジョンの魂」発表。

1971 中学入学 Let It Beシングル購入。B面のYou Know My Name に衝撃を受ける。
このころ洋楽にシングル中心に聞く。ミスターマンデイ、嘆きのインディアン
「車輪の下」をきっかけにヘッセを多く読む。
・1月、ジョージ、「マイ・スイート・ロード」発売。チャートの1 位になるが、3月盗作で告訴される。
・ジョージ、バングラデシュ・コンサート
・ポール、ウィングス結成
・ジョン「イマジン」発表。

1972 中2
購入するレコード シングル中心から アルバム中心になる。
Beatles のアルバムを 発売順に買い始める。
日本のフォーク・ロックも聴き始める。
よしだたくろうを代表とする エレックレコード中心に買い集める。

洋物のロックにも手を出し始める。お小遣いはすべてレコードに…

ライブ:デビッド・ボウイ(初来日) 泉谷しげる、その他
旺文社文庫中心に購入。
日本文学の基礎とも言える 様々な本は ほぼこのころ読んだ。
川端康成、武者小実篤、志賀直哉、夏目漱石等。
1972 ・ジョン「サムタイム・イン・ニューヨークシティー」発表。
・ジョンとヨーコに、アメリカ合衆国より退去命令が出される。 
理由はイギリスでのドラッグ事件の有罪判決。 但し、実際は二人の政治活動。

1973 中3
引き続きBeatles フォークに加えて、ストーンズ、S&Gなど。

ライブ:デイビー・ジョーンズ(元モンキーズ)、モップス、高田渡、ガロ、
公開録音多数。
杉田二郎のバックはオフコース(二人)だった。
戦国物(特に司馬遼太郎)が好きになる。新撰組関係多数。
1973 ・赤盤、青盤発売。
・ジョン「ヌートピア宣言(MIND GAMES)」発表。 リリース直前にジョンとヨーコ別居。 
ジョンはこれ以後「失われた週末」と呼ばれる暗黒期に入る。
(ヨーコ公認でメイ・パンと愛人関係となる。)

1974 高校入学 放送部入部。
放送室の機材使いたい放題、部費でレコード買いたい放題の恵まれた環境。 
部員はみな似たもの同士でさらにはまっていく。 
ディープ・パープル、ツェッペリン、EL&P、
誰かが買ったレコードをみんなで回していった。
聴きたいけど買うほどではない場合は、誰かをそそのかすと
殆どのロック(日本も含めて)のレコードは手に入った。
ビートルズはみんな持ってたから貸し借りの対象ではなかった。
ビートルズシネクラブ入会。復活祭・映画祭、イベントがあれば必ず参加。
朝早くから目黒公会堂に並んだ。

Jazz も聞き始める。ビッグバンドとピアノトリオ。

ライブ:宮間としゆきとニューハード、
五木寛之、横溝正史の完全読破をめざす。
横溝正史は角川文庫版は読破。五木寛之もほぼ読破
1974 ・ジョン、「心の壁、愛の橋(WALLS AND BRIDGES)」発表。
・ジョージ「ダーク・ホース」発表
・ジョン、エルトン・ジョンのライブで3曲共演。
この時ヨーコと再会し復縁。(但し、別居中でも二人は毎日電話で話していたという。)

1975 高2 少ないお小遣いをやりくりして、やっとホワイトアルバム購入。
ビートルズはほぼ揃い、海賊盤を求めてミュージック・ライフの切り抜き片手に新宿をうろうろ探し回ったりした。
また、3枚組のサンタナの「ロータスの伝説」と、同じく3枚組のバングラのどちらを買うか死ぬほど悩み、バングラ購入。 今思えばよく買えたもんだと思う。この直前にたぶん ジョージの「オールシングスマストパス」も買っている。 よく買えたもんだ。

はっぴーえんど、紫、クリエーション等のジャパニーズロック、たくろう、陽水、NSP等のフォーク、パープル、キング・クリムゾン等の洋楽ロック、Jazzと範囲が広くなりすぎ、どのレコードから買うか常に悩んでいた。
周囲ではキッス・クイーンがはばをきかせていた。
この頃より、古典文学に興味を持ち始め、それに伴い 戦国以外の日本史(主に平安期から鎌倉まで)に関連した物を 多く読む。 また維新史(特に長州)を 多く読む。
谷崎潤一郎、与謝野晶子訳の源氏物語を読破。 但し原文は挫折。
海外文学では、名作と呼ばれる物は押さえておこうと カミュ、カフカ、シェークスピア等 代表作は読むように勤めるが、翻訳の限界を感じどうしても時間がかかってしまう。
その中の一人の作家として、アガサ・クリスティーと出会う。ポワロ物の長編を中心に読みあさり始める。
1975 ・ジョン、「ロックンロール」発表。録音されたのは前年、ヨーコとの別居中。
・ショーン・タロー・オノ・レノン誕生
。これよりジョンは主夫業に入る。

1976 高3 受験で思い出すのは渡辺真知子の「迷い道」。 
ヒットする前で、毎日毎日文化放送の「走れ、歌謡曲」(早朝3時〜5時)でかかっていた。 受験が終わってヒットした頃は飽きていて、聴くのも嫌だった。

ライブ:エアロスミス フォーリーブス・ラスト・コンサート
受験だったはずなのに 本はたくさん読んでいたと思う。 ただ、肩の凝らないエッセイや赤川次郎等が多かったかもしれない。
1976

1977 短大入学 周囲のロック人口が減り、ビートルズファンも居ない状況になる。ロックは高校の友人と、短大の友人とはジャズとフォーク。
ロック系のレコードは貸し借りができにくくなり、比重としてフォークが多くなる。グレープ・中島みゆきその他。

また、ユース・ホステル研究会に入部したこともあって 旅行が趣味の一つとなり、レコードに費やすお小遣いが減ってしまった。

ライブ:エリック・クラプトン ピーター・フランプトン イアン・ギラン・バンド レインボウ 
当然国文科進学。源氏物語の原文を少しずつ進める。
ほぼ完成していた五木寛之コレクションを さらにパワーアップさせる為に 神田・早稲田の古本屋めぐりにいそしむ。(初版本購入のため)
第三の新人と呼ばれた人々(吉行淳之介、遠藤周作・三浦朱門、安岡章太郎等)の作品を多く読む。
読む作家が決まってしまい、また好きな作家の作品は 読み尽くした状態になってしまった。自分にとって新しい作家に出会うために、新潮文庫の解説目録の「1ページに1冊」は読んだ本があるように努める。
新潮文庫の解説目録が更新されると貰ってきて、読んだ本にバツを付ける習慣はいまだに続いている。
1977

1978 短大2年 周囲の影響とは大きいもので、高石ともやとザ・ナターシャセブンを多く聞くようになる。ロックは話す相手がいないせいか、好きなバンド以外は聞かなくなった。ミュージックライフを買わなくなったのもこの頃。 代わりにジャズ喫茶に入り浸るようになった。

ライブ:10CC リー・リトナー 田園コロシアム・ジャズ・フェスティバル 高石ともやとザ・ナターシャセブン
卒業研究は室生犀星。古典をやりたかったのに 担任が現代文学で 流れにまかされていたらこうなってしまった。ただひたすら室生犀星の日々でした。
でもたぶん、ほかのも読んでたと思う。
1978

1979 社会人1年 周囲には音楽の話ができる人が皆無になってしまった。これはつらかった。当然ビートルズファンなんていない。ただ、勤め先(霞ヶ関ビルにあった。)のそばの特許庁の売店ではレコードが2割引くらいで買えたので、その点でのみ恵まれるようになった。ちなみに周囲にいたのはジュリーファンと郷ひろみファン。

ライブ:高石ともやとザ・ナターシャ・セブン 杉田二郎
「竜馬がゆく」をよみ大感動。それまでに司馬遼太郎はほとんど読んでいたのになぜこれが後回しになっていたかは不明。
相変わらず日本文学を中心に。 海外で読むのはクリスティーに固定されてしまった。
1979

1980 社会人2年 ロックの新作はあまり聴かなくなってきた。

ライブ:高石ともやとザ・ナターシャ・セブン ケメ
三島由紀夫「豊饒の海」(4部連作)に感銘を受ける。
日本文学の乱読が続く。
・ポール空港で足止め。ポールファンの友人は、この時外務省前で抗議のキャンドル行進に参加した。
・ジョン、射殺。
私はずっとこの日を12/9だと記憶していた。ジョンが死んだ後は関連の記事は私の目には入らなかった。というより、見たくないから見ずに過ごしていた。このHPを制作する上で、事実を確認したところ実際は12/8だった。
つまり、12/8の深夜射殺されたジョンのニュースを、私は時差の関係で12/9の午後知ったのだ。20年近く私はあれは12/9だったと思いこんでいた。

1981

22歳になってすぐ結婚。すぐに子供が産まれたので(3人)、この後の10年間を私は「失われた週末」ならぬ「空白の10年」と自分自身で呼んでいる。
知らず知らずのうちにビートルズも含めて私が愛した物達から離れていってしまった。
結婚して2年くらいたった頃、自宅近くに貸しレコード屋ができた。借りる気が起きなかった。私の中でレコードとはある意味神聖な物だったから。
本だけはぽつりぽつりと読み続けていた。
長編を時間をかけて読み進めたりもした。吉川英治・「徳川家康」等
1年に1冊は古典を原文で読むことに努める。源氏物語、枕草子、蜻蛉日記、竹取物語、その他。主に講談社学術文庫。
1981 ・ジョージ、「想いは果てなく〜母なるイングランド」、この中からシングルカットされた「過ぎ去りし日々」はジョンに捧げられた曲。レコードではジョージ、ポ−ル、リンゴの3人が共演していた。

1988      この頃、やっとCDプレーヤー購入。空白の期間に音楽シーンはすっかり変貌をとげていた。
ビートルズ・ボックス(CD15枚組)を購入したのもこの頃。

イカ天が流行ったのもこれくらいの頃だった?
あの番組は審査員が良かったから好きだった。私の感想と審査員の感想がだいたい一致していて楽しかった。
スペースの問題から五木寛之を除いてすべての本を処分。(600〜700冊くらい)
これ以後は図書館で借りることが多く、文庫になりそうもない文学史関係のもの(作家に対する評論や伝記等)や古典の研究本、日本史(平安から室町まで)などが多かった。
本を処分したことは今では大変後悔している。人知れず廃版になっていく純文学がこれほど多いとは思わなかった。
1989 ・ポール「ゲット・バック・ツアー」開始

1990 ポール来日公演。アリーナのど真ん中でみた。ジョンを思って涙が止まらなかった。
何年か図書館で借りていたものの、やはり手元に置いておきたくなって また購入し始める。 また、この年より、年間100冊を目標に 読んだ本、作者、日付等を書き留めるようになった。
1990 ポール日本公演
1991 ・ジョージ、GEORGE HARRISON WITH ERIC CLAPTON AND HIS BANDとして日本コンサートツアー、全国6都市で12回公演。
1992 ・ジョージ、2枚組でライブインジャパン発売。
1993 ポール「ニュー・ワールド・ツアー」

1997 MD購入をきっかけに プレーヤーを廃棄。これでレコードは聴けなくなってしまった。
クリスティー以外の海外物も読むようになる。ジェフリー・アーチャー、スティーブン・キング、ジョン・グリシャム、パトリシア・コーンウェル等

       

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